塩尻の伝説と民話

塩尻市の歴史は深く、昔から様々な民話が語りつがれています。

その中から、水に関係の深い民話をのせました。

少し文章がむずかしいかもしれませんが、昔の人の水と生活との関わりがとても深かったことだけでも感じてみてください。


● 北小野編

しげ沢清水(一名「色白水」)

善知鳥峠
善知鳥峠

 善知鳥(うとう)峠は、古くは東道、時代が下がって三州街道として、伊那三州方面や名古屋方面から(福島の指揮所をのがれる一般庶民の関係もあって)、仲馬による物資の交流や白衣(びゃくい)の善男善女の善光寺参りなどが大へん賑わしく往来した。

そうした旅人にとって、峠の北麓の上条のこわ清水と、南麓のしげ沢清水は実に貴重なものであった。

このしげ沢清水について、古記に

 柔軟綿の如く清徹透明(せいてつとうめい)なる清水古きより湧き出ず。いまなお美し。これ昔よりの名水にして(村上天皇応和岩塩七月)修理太夫源維立朝臣信濃の国司に任ぜらる。当時、化粧の料として常に朱氏、任満ちて京へ帰りても、なおその晴行のあわき香りを忘れざるや、わざわざ運び行きつつ、終生これを愛でたりと

 また、昔、善光寺参りの老若男女、伊那路より善知鳥峠を越えるもの数多し。みんしげ沢の清水を所望す。

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 三河の国の者とかや、老母床にありて今一度信州のしげ沢の清水を飲みたいとて、息子遠路わざわざ来りて汲み行き老婆に進む。老婆飲みて、これは前しげ沢の水にて甘くないと言うたとの話いまなお伝説に残る。(前しげ沢と奥しげ沢の二流の清水あり)

古歌(こか)に

   甘い水だよしげ沢清水

       あまちゃかんぞの味がする


小野神社いち川のイボとり水

小野神社・矢彦神社
小野神社・矢彦神社

  塩尻市北小野(旧筑摩地村)の住宅や耕地のどまんなかに、憑目の森(たのめのもり)といいう一万二、三千坪にわたる、四角い広大な太古からの自然林があって、附近の山野にない樹種がうっそうと繁り、二百数十種を数える植物の宝庫でもある。

 この森のきた半分に塩尻市北小野の小野神社(祭神―建御名方命)、南半分に上伊那郡辰野町小野の矢彦神社が、飛地(とびち)となって鎮座されている。

 神代の昔、建御名方命(たけみなかたのみこと)が、諏訪の守矢神の抵抗によりこの森の地にしばらくお住まい遊ばされ、土民に農耕をすすめるかたわら武育に励まれ、機をいえ、土民を引きつれ三沢(神沢)峠を越え、三沢橋原の地で守矢の神と戦い、守矢神を屈伏せしめて諏訪の国へ御入国なされ、またご入国後もしばしばお巡りになり、この地にお休みなされたという由緒深い森であり、命なきあとも、土民は、この地を命神の地として大切に保存・御祭祀申し上げ、今日に至った。

 小野の盆地は昔は伊那へ属していたが、戦国時代、豊臣秀吉が天下を平定された際、重臣の石川伯耆(いしかわほうき)守を松本領主に、毛利河内守を飯田領土に封じたところ、小野の盆地は伊那・諏訪・木曽・筑摩の四郡の接する戦略上の要地であるので石川氏が領地にしようとしたが、毛利氏が応ぜず、遂に双方で京都へ上り秀吉の裁決を願って、土地・神社地・その他を真半分にするよう裁許があり、従って神社の社地も真二つに分割された(天正十九年十一月二十三日)。

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  その際、小野神社に属して境に接する神池(藤池)から流れ出る小川が、太閤裁許の境となった。

 この小川は神社前の道路(現在国道百五十三号線)を越えて、東にあった巫女(みこ)屋敷の池に注いでいて、この境を流れる川をいち川(斎川〈いつきがわ〉ともいうといわれる)といい、落葉の中を流れるこの川の水をつけるとイボがとれるといわれ、子どもの頃お宮で遊んでいて、よくイボへ水をつけるのを見かけた。また、明治の頃は神社前に小学校があり、神社は生徒の遊び場になっていて、イボのできている生徒はよくこの水をつけた。

 この神池の東隣りに、おぼこ様または神陵(しんりょう)ともいわれる古い石が据えられ、玉垣で囲まれたところがあり、神社参拝の際、このおぼこ様へもお参りする人が多い。おぼこという名前については貴人の墓を言うとも言われ、また、大場博士などは、小野神社の宝物に神代鉾(鐸鉾〈サナギボコ〉)があり、祭儀のさい磐座(いわくら)として、この地に鉾を立てて神霊を降神されたいわゆる「御鉾様」ではあるまいかといわれているが、いずれにしても珍しいところである。


● 北小野編

鐘池 (かねいけ)

 昔、憲養法印という徳(とく)の高い僧があって、非常な苦心をしたすえに、東山の頂きにひとつの御堂を建てて医王堂と名付けた。ところが、村民の信仰が厚くて、毎年五月の節分になると村の人々が集まって、蓬(よもぎ)で医王堂の屋根をふきかえて、崇敬(すうけい)の真心をあらわすのが例であった。このゆえに、医王堂を蓬堂(よもぎどう)と呼ぶようになった。この御堂にひとつの半鐘があって、その鐘の音が麓(ふもと)の村々に響き渡って、煩悩(ぼんのう)にまよっている多くの人々の心を救う霊鐘であった。ある晩、一人の男が現れて何の考があったんかこの鐘を盗み出し、西南の麓に向かって逃げ降りた。するとその鐘が急に鳴り出して、何としても止まらない。男は恐ろしさにふるえ上がり、そばに小さな池のあったのをさいわいに鐘をなげこんで、どことも知れず逃げ去った。この池が、今、金池と呼ばれている池である。旱魃(かんばつ)の年には、この池へあまごいに行くのがこの辺のしきたりになっているが、そのときはみんなで池の水をかえ出すのである。だが、この、山の上の小さな池でありながらいくらかえても水のかれることのないそこなし池であるのが、今もふしぎに思われている。


牛池 (うしいけ)

 長畝区塩沢の湯の前に、牛池と呼ばれる直径3.6メートルそこそこの小さな池がある。昔、どこからか、大きな牛に塩を背負わせてここを通った者があった。ところがどうしたはずみか、急に牛が、荷物もろともズルズルと地中に落ちこんだ。牛方は驚いて、あっちにひっぱりこっちにひっぱり種々やってみたが、みるみるうちに牛は落ちこんで、とうと、行方も知れぬ地の底に沈んでしまった。やがて一条の煙が立ち昇ったかと思う間に、続いて清水が湧き出てきて、たちまち池となってしまった。この池も鐘池と同じく底なし池で、水のかれることがない。旱魃(かんばつ)のときにはこの地方の人々が集まって、弁財天(べんざいてん)の祠(ほこら)をこの池の中に沈める。すると、たちまち雨が降るといわれている。


強清水 (こわしみず)

上西条神社の強清水
上西条神社の強清水

 善知鳥峠から昔の伊那街道(三州街道)を上西条へ下ったところに、強清水という有名な湧水がある。権現様(ごんげんさま)がまつられているので、権現清水とも呼ばれ、今は塩尻市上水道に取り入れられている。しげ沢の清水と通じているともいわれる清水であるが、大木の根もとからもくもくと湧き出て川となり、上西条・中西条を流下して下西条で四沢川(よさわがわ)と合流し、田川となっている。名前の出所が種々伝えられているが、その一つに、「親は死んでも子は清水」というのがいかにももっともらしく聞こえる。碁(ご)打ちが「親が死んだとさ」と言って碁を打っていたという話と同様に、親の死に目に会いにいくにもまず一杯という意味だろうと解釈される。昔、雨乞いのとき、ここへ釣鐘を沈めて祈ったともいわれている。


姥ヶ池 (うばがいけ)

三嶽神社隣接姥ヶ池
三嶽神社隣接姥ヶ池

 三嶽神社みたけじんじゃ)の大鳥居(おおとりい)のすぐ西に、姥ヶ池と呼ぶ池がある。神姥というのがあって、この池の主だということである。昔から、膳(ぜん)や椀(わん)を借りたい時にこの池の主にお願いしておけば、よく朝、ちゃんと、土手の上にとりそろえておいてくれた。

 ところがあるとき、ある人が借りたまま返さなかったので、それから後はいっさい貸してくれなくなったという伝説がある。この池もまた底なし池で、雨乞いのときは、他の池と同じような言い伝えがある。


四十九石 (小坂田の主)

小坂田池
小坂田池

 四沢川に、四十九石と呼ばれるえんばんがたの珍しい 石が出る。珍しいので拾ってくる人があるが、この石を家へ持ってくると不幸があるというので、 もとの所へ返す風習があった。また、石が自分で帰って行ってしまうという伝説がある。

徳川時代に、塩尻宿のある家に白蘭(びゃくらん)と呼ばれる 美人が勤めていた。宿場中で評判の高い女であっ たが、ある年の秋、友人と共に観音様におまいりして、ついでに小坂田池を散歩しようと「岩鼻」の先を回ろうとして下を見ると、四沢川の水の中に珍しい石がある。白蘭は、連れていた小女にその石を拾わせてこれをもて遊びながら、小坂田池の畔(ほとり)を散歩していた。そのとき、突然吹き渡ってきた北風がゾッと身に泌みて、体が震えた。その瞬間、手に持っていた石はコロリと落ちて、アッと いう間に池に沈んでしまった。 

小坂田池

 その夜白蘭が夢を見た。身に裃(かみしも)を着た眉目秀麗(びもくしゅうれい)な若殿が現れた。よく見ると、今日池に落とした石を持っている。静かに語る話は次のようであった。

「私はこの石の精である。きょう、はからずも池の中に落とされ、泥に閉じ込められて、出ようとすればするほど沈むばかりでとても抜け出ることができない。今日から後はこの池の主となって、末長くここを守るであろう」 語り終わると、若殿は消え失せたという。


犬飼の清水 (いぬかいのしみず)

犬飼の清水石碑
犬飼の清水石碑

 徳川時代、参勤交代(さんきんこうたい)の諸大名が、この中仙道を長い行列を作って上り下りするころのことであった。あるお公卿様(おくぎょうさま)のお通りで、幾十人かの行列が塩尻峠を越えるために、塩尻宿を出発した。 柿沢村を通る頃から、お公卿様の愛犬がしきりに、悲しい声で苦しみを訴えて泣きはじめた。 さてはお犬様の病気と、一行は大騒ぎとなり、 いろいろと手を尽したけれどもいっこうに効果がない。峠の中ほどまで来たころには、今にも死ぬかというありさまとなった。お公卿様も駕籠(かご)を出て、何とか手当の方法がないかと附近を探したところ、ちょうど、清く美しい清水が湧き出しているのをみつけた。これこそ天の恵みだと、手に汲んで一口一口犬に飲ませたところ、不思議に病犬が元気づいて、見ている間に回復して駆けだした。 そこでお公卿様は大喜びし、この清水に「犬飼の清水」と名を付け、後々ここを通る人々のためにと、石碑(せきひ)にその名を彫って水口に建てたという。


姥ヶ池 (うばがいけ) 

雷鳥公園 姥ヶ池
雷鳥公園 姥ヶ池

 大門二番町もと若宮神社境内(わかみやじんじゃけいだい)に、赤渋(あかしぶ)の湧く池がある。今は、道路拡張のため三分の一ほどの小さい池になっているが、その姥々池に伝わる貸膳椀(かしぜんわん)の伝説がある。この姥々池は竜神に通じていて、家に客があると池に行き、膳椀何人前お貸しくださいとお願いすれば、朝ちゃんとふちに揃えてあった。あるとき、その膳椀を借りたまま返さなかった者があったので怒り、それ以来貸さなくなったといわれている。こうした伝説は、各地に非常に多い。


● 片丘編

比丘尼清水 (ぴくにんしみず)

 欠の湯から高ボッチへ行く道の途中右側に、清水の湧き出ている沼池がある。昔は十平方メート ルくらいの池で、中央に石が一つあって水がたまっていて、通行人の水呑み場であったが、今は泥沼となり草が生えていて、昔のおもかげはない。この池を比丘尼清水、または笄(こうがい)清水と呼んでいる。 

 時は真夏の災天の下であった。憂い顔の、みめうるわしい、年の頃十八、九の美人が通りかかっ た。のどがかわいたので美人は水辺に行き、手で水をくんで飲もうとしたとき、髪にさしていた髪飾りが、ポトンと小さな音をたてて水中に落ちた。美人は水中の髪飾りをしばらく見つめて いたが、やがてつぶやいた。

 「髪飾りが水の中に落ちたのは仏様のお手引きである。やはり私は尼(あま)さんになる運命を持っていたのだ」と。そして美人は、きれいな髪を切り落して尼さんになったという。 それから後、誰いうとなしに「ぴくにん清水」と言うようになった。


欠の湯 (かけのゆ)

 八軒長者の屋敷(片丘南内田八軒欠)といわれる所がある。昔ここに、八軒長者が住んでいたという。館(やかた)の主は諸説があってはっきりとしない。が、明治の初め頃は、上流の大沢川から用水を引いて、その水路の土堤(どて)が山の中腹に遠く続いて見えたという。昔は山城の址(あと)をとどめていたが、今を去る室町時代(五四五年前)明徳年間に、大地震と大暴風雨(だいぼうふうう)のため、ここにあった塩池一帯を中心として、四、五百メートルにわたり決壊(けっかい)して山津波(やまつなみ)をおこし、北内田・小池・村井・小屋を押し流し、奈良井川をよこぎり、笹賀の神戸・二子まで及んだと伝 えられている。そのはげしさおそろしさは今も伝えられている。その結果、西側は大きな崖となった。明治になり、そこに渋の冷泉を発見し、初めに百瀬彦太郎氏明治七年湯屋をはじめ、次いで青柳甚右エ門氏(あおやぎかんざえもんし)もはじめたが、明治十五年また山崩れにあい、家内三人その下に埋もれて死亡、一家全滅して人柱となり、位牌(いはい)は薬師堂にまつられているという。その後は名湯の名高く、神経痛・リュ ウマチ・脚気(かっけ)に効能ありとして、浴客も、はじめは伊那・諏訪など南信地方より来たが、今は各地より来て、湯屋も四軒にも増え、南の一画にも新欠の湯がひらかれ、今日の繁昌(はんしょう)のもとをなしたのも三人の人柱のおかげであると伝えられている。 

 お薬師様にも、松葉杖(まつばづえ)をついて入湯にきて、帰りには歩行が可能になり、松葉杖や杖が恩返しのしるしに多くあがっている。


赤渕 (あかふち)

 大川の渕(ふち)には河童(かっぱ)がすんでいると、古くから言い伝えられていました。夏がくるとどこの親も子どもたちによく言い聞かせます。 

  ― 河童は木の葉なんかに姿を変えて浮かんでいるから、うっかり渕に入って拾わっとすると、ふいに爪(つめ)の曲った手が出てきて、くいっと水の中ヘ引きずり込んでしまう。おっかねえぞ。 ―

  ― 河童は人間の尻のこが大好きだ。だから、河童にやられた者はきっと肛門(こうもん)が開いている。なりたけ頭を低くして尻を上へ上げて泳げ ―

 しかし子どもたちは、はじめのうちこそ用心して、浅瀬(あさせ)でびちゃびちゃやっていますが、それではちっともたんのしないので、いつの間にか、深いほうへ深いほうへと寄っていってしまいます。親たちはそういうことをよく知っているので、仕方なしにこうつけたします。 

  ― 河童は、頭のてっぺんにいつも水の溜まっ たお皿をのせている。水がひあがると河童は生きていられね。もし河童に追われたら浅いほうへ逃げろ河童はお皿の水のひあがるのを気にして、深い渕へもどってしまう。 

  ― それからな、河童は夕顔が大嫌いだ。だから川へ入るときは、夕顔食ったぜときっと言うんだ。―

 下町のほうに継母(ままはは)がいました。継母は継娘が憎くてたまらず、朝から晩まで息すきなくこき使っていました。こき使うほどならまだしも、雪がまだ消えもしないのに、芹(せり)をつんで来いとか、クリのいががまだ笑(え)まないうちから、クリを拾って来いとか、そりゃ無理ないじめかたをしました。

 娘はやせこけて、きりぎりすのような手足をしていました。爪の間や耳のうしろには、いつも拓(あか)をためていました。もらい湯にも連れていってもらえなかったのです。そんな娘でも、十、十一、十二とだんだんたつと、黒目がばっちり輝き、したあごのあたりが丸味を帯び、胸のあたりもふっくらとふくらんできました。継母には、娘のそんなところが、がまんならないくらいいやらしくみえてくるのでした。 

 夏がきました。ある日継母は娘にこう言いました。

 「お盆がもうじきくる。お前ももう十二だよ。耳のうしろに拓なんかためていたら恥ずかしいじゃないか。大川の渕へ行って体をきれいに洗っておいで。渕のはたへ行ったら、『うちじゃ夕顔まだ小さいで食べられないよ』と言うのだよ。それから、もしほおずきでも浮かんでいたら拾っておいで、お盆に鳴らして遊べるからね」

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 娘は大川へ行きました。そして言いました。 

 「夕顔まだ食べないよ。小さいので……まだ小さ いので……」

 「まだ小さいので」と言うときには、娘は半分泣いていました。 

 そのとき水面が少し動いたかと思うと、びっくりするくらい真赤い大きなほおずきが浮かんできました。 

 「まあ大きいほおずき!」 

 娘は喜んでほおずきを拾おうとしました。すると、今度は水面がぼこんと大きく盛り上がり、色白の、何とも言えないくらいきれいな男の子が浮かび上がってきて、こっちのほうへ手を差しのべるのでした。 

 娘は、今までついぞ見せたこともないようなうれそうな顔をして、両手を前へ差し出したまま、どぼんと、水の中へ姿を消していきました。

 それからというもの、毎年お盆がくるたびに、ほうずきが、渕いっぱい真っ赤に浮かんでいたといいます。赤渕という名はそういうことからつけられたのでしょう。


● 宗賀編

池の権現 (いけのごんげん)

池生神社
池生神社

 本山宿の西の方、奈良井の清流のほとり、栃の巨木に囲まれたみごとな社叢(しゃそう)の中に、俗称「池の権現」とよばれる池生神社がある。この社には、民間信仰を中心とした民話ふうの伝承が、つい近ごろまで続いていた。 

 まず目の神さまでおありなさること。どのような強情な眼病でも、この神さまに鯉を献上して祈願し、霊池の水で目を洗えば必ず癒(い)える。ところが鯉は、やがて身代わりとなって、両眼の治癒を祈願した場合、鯉の両眼は白くにごり、片方だけの場合いは片方がにごって、盲目(もうもく)となっていくという。

 次に、この神さまは松がひどくお嫌いである。 これは松葉で目を突かれたことがあるためで、近くにはいくらも松林があるにもかかわらず、このお社(やしろ)ばかりはたえて一本の松もない。このため、 氏子(うじこ)たちは社殿の造営や修理の際、たとえ貫(ぬき)一本たりとも 松を使わぬよう心しているといわれている。

 さて、この神さまのもの惜しみはひと通りでなく、たとえば、境内の落葉が風に吹き散らされたとしても、必ず晩中にもどって、朝までには木の根方にうず高く積まれているという。そのようなわけであるから、村の人たちはかりそめにも、栃 の実や山葵(わさび)などを拾ったり取ったりはしない

 ところが、ほど遠い里の人たちはそれほどにも思わず、お社に据えてあった石のお猫さまをお蚕(かいこ)のねずみ除けにと、こっそり抱いて帰ったため急に病み出したり、または境内から小さい楓(かえで)の木をこいで行って、わが家の庭に植えたところ、その木が大きくなるにつれて病人の絶え間がなく、今さらの如く神罰(しんばつ)のてきめんさに驚き、掘りとって運送に積んでわざわざ森へ返しに来たとか、そのような伝説が数々残っており、一方この禁忌(きんき)のおかげで、社叢の多種類の植物群をよく保存してきたことにもなるのである。

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 なお、養蚕(ようさん)の神としても名高く、額殿の壁の、蚕の掃立てから上簇に至る数十枚の雅趣(がしゅ)に富んだ絵、数百を数えるおびただしい絵馬。

 それらによっても、信仰の分布が中南信一帯に広がっていたことがうかがわれる。

 また雨乞いの神としても遠近に聞こえ、奈良井川の下流地域、とくに笹賀辺りからは、かんばつともなれば、蓑笠(みのかさ)の大集団が押し寄せ、たき火をし、池の水をかきまわし、絵馬を踏んづけて声をあげ、神の怒りを呼ぼうとした。 

池の権現 ― 川あり、泉あり、 雨乞いあり、すなわち民間信仰の水神として発祥し、後に池生神社。祭神は古事記海幸山幸(うみさちやまさち)のくだりに出てくる海神の女豊玉姫命。こころみに、信府統記(享保九年 ― 約二百五十年前松本藩主水野家の編纂、信頼度がかなり高い )松本領諸社記をひもとくと、

本山町池ノ御神、地内東西一町二十間、南北一町 、縁起来由知レズ。


邂逅の清水 (あふたのしみず)

邂逅の清水 
邂逅の清水 

 悲劇の英雄木曽義仲にまつわる伝説は、この地方に非常に多い。その中でも邂逅( あふた )の清水のひとくだりは、まさにハイライトというべきであろう。  木曽義仲は幼名を駒王丸といった。駒王(こまおう)二歳のとき、父源義賢

( みなもとのよしたか )は同族の勢力争いのぎせいとなって命を落とし、その身も危くなったので、乳母( うば )の夫である信濃権守中原兼遠( しなのけんしゅなかはらのかねとお )に、木曽の地で養育されることになった。 

 血筋は争えぬもので、駒王丸は成長するにつれ、あっばれ源家の武将としての素質を現しはじめる。 

 おりしも治承四年、平氏追討の似仁王( もちひとおう )の令旨( りょうじ )が谷深い木曽の地までもたらされた。義仲、令旨を奉じて一度起つや、ものの響きに応ずる如く、信濃一円の源氏方がこれに応ずる形勢となった。

 やがて義仲は木曽宮の越なる旗挙八幡に勢ぞろいして気勢をあげる。まず目ざす所は小県の依田城、源氏の白旗を打ちなびかせた木曽勢は、木曽谷をまっしぐらに下り、今の洗馬の辺りを通過する。 このとき、今井四郎兼平がその郷より騎せ参じ、ここで主従が邂逅( かいごう )するのである。四郎兼平、義仲の乳兄弟として、あるときは駒を並べて木曽の山野をかけめぐり、あるときは若人同志肩を並べて 源家再興を語り合ったその人である。父権守兼遠は木曽の防備と糧食の確保のために、二郎兼光を 伊那の郡種口に、四郎兼平を筑摩の郡今井に、五郎兼行を恵那の郡落合にそれぞれ配しておったという。

 その月日はさだかでないが、たいそう暑い日であった。(義仲の軍勢が根拠地依田城に拠り、やがて平家方の笠原頼直と川中島の市原に対陣したのが、治承四年九月七日である ) ― 義仲の馬は強行軍にたいそう疲れ、もはや進むこともできなかった。そこで兼平はこの馬を、北の方、村はずれに、うっそうと茂る欅(けやき)の根方にこんこんと湧く清水へ引いて行き、脚を洗ってやった。すると馬は 忽ち元気をとりもどしたという。 

 それ以来この清水を「会ふたの清水」と当時の言葉で呼び、馬を洗ったが故に洗馬ととなえるようになったと伝えられる。

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 さて「邂逅」であるが、その意味は「出会い」 というほどのことであり、この文字をいつごろから使ったかはよくわからない。もっとも明治書上げ書には

  「太田清水、洗馬駅の乾( 北西 )の方にあり、旧名解逅清水の名称あり」

とあるから、少なくとも幕末頃には使われていた 場合もあったと思う。 

 そうかといって、貝原益軒(かいばらえきけん)の岐蘇路( きそじ )の記( 二七〇年前 )には 

「  洗馬の町家八十軒ばかりあり、町の西に太田乃清水とて水あり。木曽義仲の馬をあらひし所なるゆへに洗馬と名付と云」

 とは言っても益軒先生、耳で聞いただけで太田の文字を当ててしまったかもわからない。

  次に、この地方にひろがっている義仲に関する伝説地を拾いあげてみることにする。 

 木曽の日義や福島に、伝説地として伝えられているものが十指に余るのは無理もないとして、塩尻市隣接の楢川村贄川(ならかわむらにえかわ)には、義仲の馬の蹄の跡という岩があり、これと全く同じ伝説が洗馬の上小曽部にもある。岩といえば、芦ノ田の鏡岩、それ に太田の太田の清水。

 寺社にまつわるものとしては、朝日村の西洗馬薬師の旭将軍開基伝説。床尾神社の義仲拳兵通過の際の祈願。同じく阿礼神社の戦勝祈願。永福寺の駒形観音への祈願等まことに豊富である。

 今井の四郎兼平については、松本市今井に数々の伝説がある。上今井の堂村には兼平神社があって、境内に兼平の墓がある。また下今井諏訪神社 には、一抱えほとの兼平形見の石がある。さらに同地区堀村には館跡、市場方( いちぶかた )は市場の跡と伝えられている。岡谷市今井との関係については、土地の人々は、地頭の別れが諏訪にあって、ずっと人脈が続いていると語っている。なお、謡曲「巴」「兼平」についてであるが、近年長野市の謡いの某社中が訪れ、これを奉納( ほうのう )したという。 

このように木曽義仲にまつわる伝説の多いのは、いわば悲劇の英雄に対する判官( ほうがん )びいきによるものであろうか。 

 義仲無位無冠二十七歳にして挙兵( きょへい )するや、緒戦市原に笠原氏をたたき、進んで横田河原に城氏を破って信越を席捲( せっけん )し、ついで長駆倶梨伽羅谷(ちょうくくらからだに)に平維盛(たいらのこれもり)を潰走(かいそう)させ、息もつがせずこれを追って入京、ついに平家にあらざるものは人にあらずとした平氏を西海に駆逐( くちく )する。やがて征夷大将軍( せいいたいしょうぐん )となるも束の間、木曽を出てより三年五カ月にして、琵琶湖畔粟津ケ原(びわこはんあわづがはら)に三十一歳を一期としてその多彩な生涯を終える( このとき兼平三十三歳 )。 

 はるか八百年、わが郷土の先人が受け継ぎ温めてきたこの義仲伝説を、われわれも素直に受け入れ、これを心の遺産として、次代にひきつぐべきではあるまいか。


平出の泉 (ひらいでのいずみ)

平出の泉
平出の泉

 それは、遠い遠い昔のこと、まだ今の桔梗ヶ原はもちろん、床尾(とこお)も平出もただ狐狸(こり)のたぐいが自由に飛びまわる未開の荒野ヶ原であった頃、ずっと北の方の国から、開拓の意気に燃えた二人の神様が、一人は牛に、一人は馬に乗られて、仲よくこの地を目指してやって来られた。

 やがて鳴雷(めいらい)の山が見え出すと、馬に乗られた神様は、もう行先は目の前だし、まだ日も高く、それれに馬も疲れているからと考えられて、途中で休みをなされた。 一方、牛に乗られた神様は

 「わたしは遅い牛の歩みであるからお先に」と言われて、長い旅の疲れも打ち忘れて、いよいよ元気をだして牛の歩みを急がせられた。

 ところが比叡(ひえ)の山麓(さんろく)まで来られたとき、その乗っていた牛が急に立ち止ったかと思うとたちまち、石のように動かなくなってしまった。

 うろたえた神様は、何よりまず水だと付近の水をみんな集めて牛にあたえたが、牛は黙して動かなかった。今はもうこれまでとあきらめた神様は、石と化した牛をあわれみ、そこを住み家と定めてこの地 を開拓した。

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 それが今の平出である。

 平出の清水には、今も牛石があり、その上に釜岩様がまつられて、いかなる旱魃(かんばつ)の年でも、訪れる人誰もが不思議に思うほど大湧水がこんこんと湧き出して、貯水池(ちょすいち)は常に満ちあふれている。

 さて、馬に乗られた神様は、石と化した牛の神様のさわぎを尻目に鳴雷山麓の床尾の地に到着し、おもむろに開拓の事業を始められたが、はてどうしたことか、いちばんたいせつな水が少しもない。 これはきっと、先に来た平出の神様がみんな集めてしまったせいに違いないと残念がられ、ほうぼうへ井戸を掘って間に合わせた。

  今も床尾の地は水利の便が悪く、ことごとく井戸によっている。

  それ故、牛にだしぬかれた床尾の神様は、 

「 床尾では、今後牛を飼うことまかりならぬ」と

言われたので、その部落では最近まで、馬は飼っても牛は飼わなかったということである。


太田の清水 (おおたのしみず)

太田の清水
太田の清水

 この地名伝説は、宗賀区新洗馬の、「邂逅( あふた )の清水」について述べられているとおなじでありますので詳細は省略しました。

 ただ、洗馬地区の「太田の清水」は、いつの頃 か、「会ふた」に「太田」の文字をあてはめるようになっています。

 洗馬と宗賀のどちらのが本当かという詮索( せんさく )は無駄なことと思います。伝説でありますので史実で はありませんから、どちらの言い伝えも伝説としては本当で、実は虚構( きょこう=フィクション )でしよう。

 洗馬の地名についても、妙義山( みょうぎさん )の伝説のように白米で馬を洗うかっこうをした事からとか、この太田の清水の伝説のように、義仲の乗馬の足をその重臣の今井兼平( いまいかねひら )が洗った事からとか、地形からだ、アイヌ語からだといろいろの説がありますが洗馬という呼び名は、この伝説の時代よりも前、約千年前の平安時代の中頃からありました。

 昭和三十三年に、竹内理三博士が洗馬の牧に関係のある資料をみつけてくださいました。後小野宮ノ右大臣藤原実資(のちのおのみやうだいじんふじわらのさねすけ)〈九五七 ― 一〇四六〉という、従一位まで進んで学識も高かったお公卿さんの「小右記(しょうゆうき)」という日記に記載されています。 

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 それによりますと、三条天皇のときの長和三年十二月二十三日、右大臣家の荘園( しょうえん=私有地 )であった「洗馬の牧」から、その牧場の現地主任であったであろう忠明朝臣(ただあきあそん)が、駒一匹と、そえ物として牛一頭と翻総( やなぐい )〈矢を盛って背に負う道具〉一腰と大壺( おおつぼ )とを、荘園主の藤原実資の命令で、三条天皇に献上したとあります。 

 大壺というのは酥(そ)ともいって、今の練乳・チーズに近いものでした。 

 この記載によって、天皇に献上できたほど立派な馬が育つまでの牧場の経営を考えに入れますと、洗馬という呼び名は、千年ほどの前からあった確かな証拠であると思います。

塩尻市教育委員会内 塩尻市史談会 「塩尻の伝説と民話」より